私の生き方

私は、まだ専業主婦が多くを占める1960年代に生まれた。
学校を出たのは、バブル時代の幕開け♪
大手企業へ就職した人は、けっこう良い給料をもらっていたようだ。

しかし、結婚後も仕事を続ける人はあまりいなかった。
まだ寿退社という言葉が生きていたのである。
若い人には、通じないだろうなぁ・・

卒業後、一度も正社員として働いたことがなく、バブルとも縁のない生活をしていた私は、周りの価値観と大きく違う考え方をしていたので、孤立していた。

仕事をしても、職場の人間関係に疲れて、すぐに辞めてしまう。

文具店で、3ヶ月アルバイトをしたことがある。
中学校で、半年くらい講師をしたことがある。
ブティックで、1年近く働いたことがある。

作られたルールに盲目的に従うことを嫌う性格なので、不合理なことを言われると「なぜ、そうしなければいけないのか?」と問い返す。

それが、生意気と取られてしまう。
働きに行くことが、できなくなった。

続いたのは2年間、家庭教師をしたことだ。
男子高校生に英語を教えていた。

母の知り合いの息子だ。
他の教科はいいのに、英語だけができないから、何とかしてほしい!と頼まれた。
私が、1人でヨーロッパへ行ったことを聞いた親御さんは、語学力があると勘違いしたんだろう。

彼は、恵まれた家庭の息子らしく、おっとりした性格。
きまじめで、足を骨折した時も勉強を休まなかった。
勉強は、土曜日の昼からだったので、疲れてよく居眠りをしていた(笑)

そんな時、私は怒ったり注意したりしない。
ふと目を覚ますと、自分で自分のほほを叩いて謝る姿は、むしろ可哀想に思えた。

ひとり息子だけに、親からかけられる期待が大きかったんだろう!
無事、希望大学へ合格するまで教えたことで、私も少し自信ができた。

そこで週2回、答案の受け渡しのために出かけるだけでできる添削指導員になった。
当時は『進研ゼミ』と呼ばれた会社で、現在の『ベネッセコーポレーション』だ!

ほとんどが主婦。
いろんな年齢の女性たちとふれあうことで、少しずつ社会復帰へ向けて、リハビリできた。

会社は、ちょうど成長期!
最初の頃は、私たちの意見をどんどん取り入れて、改革を進めてくれた。
賃金はホントに安くて、こき使われたが、自分のペースで仕事ができるのが良かった。

『好きな先生へ手紙を書こう!』というイベントの時は、多くの生徒からお便りをもらい、とても励みになった。

東京ディズニーリゾートで勤続15年表彰を受けて、初めての東京ディズニーランドとディズニーシーで遊んだ♪
しかし、大きく成長した会社は、私たちの意見を聞かなくなり、魅力がなくなった。

自分のカラダに無頓着だった私は、体調変化を見逃し、死のふちにいた。
発見が1ヶ月遅かったら、死んでいたと医師から言われた時は、驚いた!
幸い、ギリギリのところで手術を受けて助かった☆

生き方を変えようと思って、市の再就職支援でパソコン操作を習うことにした。
コンピュータサービス技能評価試験でwordとExcelを同時受講。

初めてパソコン操作を勉強する人が同時にやると、混乱することが多いそうだ。
やめた方がいいと言われたが、時間がないので一気にやることにした。

そして、3ヶ月後の試験でどちらも99点で合格!(あと1点を取れないのが、私だ・・)
そのおかげか、事務員の仕事を紹介してもらえた。
派遣の女だ!(笑)

ただし、1年で解散する予定の団体だと言う。
それでも、40歳を過ぎた自分にはありがたいと思った。

1年後、解散予定だった職場は継続が決まり、2018年10月に仕事を辞めるまで、14年以上勤めた♪

最初は経理事務だけだったが、徐々にいろいろな仕事をさせてもらうようになり、やりがいがあった。

上司に恵まれたおかげだ☆
特に最初の1年間トップにいた人が、すばらしい人だった!
彼が、あと数年生きていたら私は、もっと得るものが多かっただろう・・

そして、直属の上司もいい人だった。
私の特性を理解した上で、のびのびと仕事をさせてくれた☆
失敗を恐れる私に「心配するな!責任を取るのはオレだから」といつも言っていた。

そんな人に迷惑をかけるワケにいかないから、必死になる!
人を使うのが、とても上手な人だった♡

14年の間に、旅好きが仕事に結びつき、海外取材を任せてもらえるまでになった!
ところが、明日から休暇で済州島へ旅行をするという日の夜、母が倒れた。

4ヶ月におよぶ闘病生活の後、最後は家に戻りたいという母の希望を叶えるため、周りの反対を押し切って、自宅介護に切り替えた。

フルタイムで働きながら終末期の介護ができたのは、訪問介護、訪問診療、ヘルパーと彼らをまとめるケアマネジャーに恵まれたおかげだ!
職場の人たちが、介護優先を許してくれたことも大きい☆

母は、娘と孫たちに見守られて、安らかに逝った。
しかし母の死後、介護疲れもあり、何のために働くのか分からなくなった・・

ほぼ1年後の初盆が済んだ時、ウェールズ留学を決めた!